6月に入って世界が住みやすくなったかも
6月1日、つまり昨日は体調がとてもよい1日でした。
私は「体調がよかった日」を32年間で5回くらいしか体験してこなかったので、昨日が記念する6回目ということになります。
これは質のよい睡眠がとれたおかげでしょうか。
せっかくなので『世界が変わっているのだわ!』と前向きに捉えてみることにしました。
6月4日、今日も世界の在り方は乱れていなくて平和だと感じています。
ニュースとかを全く見ないので感覚だけの話になりますけどね。
世界全体が「なんとかなる」のサンドボックス的なエネルギーになってきています。
ルールを守る必要がなくなっているのかな。30年計画みたいに長期プランを練る必要がなくなったのです。
ふと感じたのが、皆の中にその変化が受け入れられ始めているという感覚でした。
口では不満を言っていても、長引かせるのが目的だったんですね。だから最短ルートを知っていても実行しなかった。足の引っ張り合いも演目の1つだったのかもしれません。
これからは皆が軽く生きていけるようです。責任という言葉は消えていくでしょう。
また、幸せは自分で選ぶ時代になったんだと感じてきています。
『誰かに迷惑をかける』って考えを捨てても大丈夫になってきたのかもです。
自分がどうしたいかだけが重要です。世界の重要度が下がったので、物質的な言葉で相手を縛ることはできなくなります。
責任は『自分が納得できるか』だけに乗っかるでしょう。
誰かが不機嫌でも誰も気にしなくなります。それは彼の行動で決められることだと理解しているからです。それは冷たいように感じるけど、自立できるエネルギーが強くなるので大丈夫です。依存的だった人も必ず自分で選べるようになります。
思えば、動けなくなるのは他人の意見を大切にするからでした。
これからの社会では皆が『それは違う』と声に出すようになるので、子供が抑圧される事はなくなるでしょう。選択を相手に依存するのは恥ずかしい行為だと言われるようになります。相手に託すのは諦めたからです、選べると知るので再び立てます。
言い訳をするよりもやる社会になります。そしてそれが早期に実現してくれる世界です。
もう苦労を主軸にした世界観は終わります。それは精神論ではなく、世界のプログラムが書き換わるから起こる現象です。
無意識的な創造だったのが、意識的な創造ゲームになるのです。
これまではそれが許されていなかったから出来なかったのだろうと思います。
これからは許可されているので皆が夢を実現できます。
それくらい緩くて大丈夫な世界になります。世界を握りしめる必要性がなくなります。
人間らしく生きるのを辞めようと思った
6月4日、午後から予定が入っていたのですが、そこで少しトラブルを起こしました。
トラブルの内容自体は大した事じゃなかったんだけど、会話上での相手の圧が強く感じて『またこれか…』とうんざりしたんですね。
えらく高圧的に物を言われて、戸惑うという展開が人生で何度も起こっていました。
内面を反映している証拠ですよね。私は人に殺されるイメージを物心ついた頃から持っていて、今でも消えていないのでその影響だと思います。
私が行動すると、いつもそれに怒鳴り声が付随していると気が付きました。
幻聴が頭の中に聞こえているので無意識化で萎縮していたんです。
こうなると生きることが義務化されるんですね。だから未来の見え方が明るくならない。
ジャーナリングをして私が世界をどのように捉えているか書き出してみました。
出てきたのが『世界が嫌い、この体が嫌い』という気持ちでした。
人間のひと手間が嫌いなんですよね。目で確認する、道徳を考えるとか、この地球で生きるために税金を払っているみたいな生活態度に嫌気がさしているようでした。
「確認=判断すること」だと考えました。日常生活のすべてを定規で測って良し悪しを決めている感じなんですね。この振り分け作業が自分も苦しめるし、他人を批判してしまう原因になっていると気が付いて、今の在り方にうんざりしました。
私は昔から言葉を使わなくても相手の考えが分かりました。物事を見る前からどうなるか予想ができたので、確認作業をする意味が分かりませんでした。
頭と体を使うたびに、人に合わせて媚びている気持ちになります。
『もし直感だけで瞬間を生きていくなら気分はどうなるだろうか?』と考えてみました。
とても楽で開放的な気分が湧いてきました。求めていたのは演技をしていない姿でした。
それは静かな私で、頭を使わず直感で生きている私です。
人間の枠組みで生きても私は幸せになれないようでした。
不思議なんだけど、この決断をすると頭がクリアになりました。食欲が収まって、体の維持を考える思考が消えていきました。
人間らしく生きることが義務になっていました。そうしないと誰かに責められると考えていたからです。説明をしないと彼らに殺されてしまうからです。
体を維持して頭を使って日々を大切に扱うことに疲れていたんです。
私にとって世界は大切ではありませんでした。周りが大事だと言うから大事に扱ってきただけです。私は超越した視点で物事を見ることによって解放されます。
直感だけで生きるイメージしたとき、穏やかに座っている私が浮かんできます。
私の中に世界が存在しなくなったのです。私は荷物をすべて手放しています。
人に忖度する生き方は幸せになれませんね
私は人に説明しようとして「10」話していました。「1~4」で話すと何も伝わらないからです。だから会話が楽しくありません。自然体で話す=駄目。の図式なんです。
『伝わらなくてもどうでもいいじゃないか』
このように割り切れば楽になれると分かっています。それが出来なかったのは、頭を使って口を使って、目で判断して人間らしく生きることが必要だと思っていたからです。
それは責任を背負うことを意味していると考えています。
人に産まれた責任を果たすとかクソです。人に説明するのも疲れました。
人間らしく振る舞うから嫌になるんです。自然体が人間でないなら人間の体以外で生きるしかありません。それが悟りや覚醒の道なんだろうと思います。
毎日を楽しくすることが私にとっては義務です。
義務=忖度して生きているということです。誰のために楽しくするのか。私のためだと思っていたけど、それは周りが喜ぶからです。それは自分の内面もそうだと信じていた。
私にとって体に依存していることが苦しみである。楽しくなるというは体があるから出来ることだ。私は快楽よりも平穏を愛しているのだと思っています。
それは今ここに既に持っているものです。それを隅に置いて日常を改善しようとしているのは、そこに義務と責任を感じているからです。
ずっと誰かに忖度して生きてきた。今だってそうです。
これにうんざりして、心底疲れてしまいました。
不幸だとかどうでもいいことです。この世界に私は依存していないからです。
また頭の中で怒鳴り声がします。これが本当にクソです。
私を縛っていたのは全てこれでした。私はもう頭を使うことを辞めます。人間の機能は使いたいときだけ使えばいいのです。
キーボードの掃除をしました。
6月5日、4年近く放置していたキーボードの掃除をしました。
新品と同じ光沢感が戻ってきてテンション上がっております。やってよかったです。
1番掃除して良かったと感じているポイントは、指ざわりが変わったことですね!
表面がキレイだとこんなにタッチ感覚が違うんですね、買った当時は気が付かなかったかもしれません。掃除したから得られた満足ポイントですね!
ゆっくりやっていて1時間半くらいかかりました。
作業中に『これでいいんだよな』と思いました。重要なことなんてありません。その瞬間に納得していたらそれで救われています。こうした積み重ねが人生でいいと思えました。
誰にも釈明しなくて済む状態こそが、自分の人生だと言えるのではないでしょうか。
私にとって欲しい明日は存在しません。ただ安心していたいだけです。
それは今ここにあります。一瞬だけを見ていて許されるなら私はこの生き方を選択しようと思います。人間を辞めると全てが解決します。それがずっと必要だったものです。
頭の中に考えが浮かぶたびに『それって人間的じゃね?』と質問すれば、雑音を消すことができるようになりました。これってテクニックとして優秀かもしれないですね!
この状態が続いてくれることを祈っています。
傍から見て怠惰な生き方でもいいと思います。自分が納得していればそれで許されているからです。社会は世界を重たく表現しますが、実際はとても軽いものです。
どんな人でも開放的に生きていくことができます。これからは社会と世界が変わるから、きっと大丈夫です。
寝るだけの生活でも大丈夫です。それを責めず、納得さえしていれば救われます。
人に証明する必要はありません。これが「貴方だけの人生」と言われる所以です。
これが無理なら生きることは義務で、ここは監獄です。
それは違うと誰だって分かっているので、私たちは自然体を選んでも大丈夫なのです。
今日もやりたいことだけをしましょう!私はElinをプレイします!