愚痴を聞くのは寄り添うための行為だったはず
私はずっと聞き役に徹してきた。
話そうと思っても彼らには言葉が通じなかったので当然の流れでした。
でも、話そうとする努力は無駄にはならず、傾聴能力を身に着けていた。
多くの人が私に話を聞かせてきた。なぜかそうしたいと思うのだそうだ。それを聞けば笑顔が見られる。だから私はこれを良いことであると考えるようになった。
私は性善説のように、彼らが変われないのは「エネルギー不足」だと勘違いしていた。
話のエネルギー状態を見れば嘘をついていると分かるが、人間の辛さを理解しているから同調して慰めた。そうして希望を見い出せば、彼らも立ち上がると信じていたからだ。
だが実際のところ変化があまり見られなかった。
それは決まった波動域に属しているからだと考えられます。
周波数と波動の違いを毎度ごっちゃになるが、産まれてきた瞬間の数値が、経験を通しても大きく変化しないという理論である。
私はこれを理解しておらず、人々は行動によって大きく飛躍できると信じていた。
それをサポートするのが私の役目だと直感的に分かっていた。だが、人々は変化を望まず、また理解力が乏しいために話を理解させることも困難であった。
『私は何をやっているんだろう?』
この思いが次第に誤魔化せなくなってきた。
諦めるのは論外だが、全ての人を掬い上げることは望まれていないと理解した。
「救わなければならない」という考えが、彼らの可能性を制限してしまう結果になり、一方的に上下関係を作っていた。彼らは子供で、私が面倒を見なければならないのである。
愚痴を吐くことが正しい行いだと刷り込みしていたような気がする。
『ぐだぐだ考えていないで、さっさと吐き出して次に進みなさい!』
こんな独善的な考えで愚痴を求めるようになっていたような気がする。
相手を支えるためよりも、相手の変化を見たいがために誘発させていた。
それが突き放さずに全てを受け止めてしまう形を作っていた。
その先には「欲」があるため、満たされない愚痴聞きは耐え難いものになっていくのが当然だった。愚痴を聞くことは大抵の場合、助けにはならないだろう。
話して貰うことで自己価値を充填していた
2週間くらい誰の相談にも乗っていない。そうすると凄くソワソワしてくるのである。
「大丈夫かな??」と相手のことを考えるタイミングが何度もやってくる。
「あ~ダメダメ。相手にエネルギーを繋げたら相手を縛ることになる!」と思い直して、自分のことに集中しようと努力する毎日。
依存していることが明らかで、彼らの波動域を馬鹿にしながらも、そこに安心を感じていたのだった。相手に行動を促しながらも、自分も変化することを拒んでいた。
愚痴を聞くことは同調することだと思っています。
なので言葉をこねくり回す必要があるんですね。でも言葉を返さずとも相手を救える、人はエネルギーの影響を大きく受けるからです。
人にアドバイスをしたり、同じ境遇であると声を高くすることは「同じエネルギー」を放射することだと思う。彼らのエネルギーを充填してあげることは出来ても、彼らに違う視点を与えることは出来ていないのである。
変化しない彼らを訝しんでいたけれど、彼らのエネルギー状態を肯定して、そのエネルギーを送り続けていたのだから、彼らがそこに甘んじてしまうのは当然だった。
私は彼らの力になりたいと思って行動してきた。
だけど、彼らの選択を尊重する必要があって、伝えたあとで変化するのは彼らの責任だ。
「変化しない=悪い」と考えるので彼らを萎縮させる。受け止めて貰っても、その先を頑張れなんて言われたら嫌になるよね。『ゆっくりでいいんですよ~』とか言っても、今の状態を駄目だと言われてるんだから反発が産まれます。
そうですね、彼らは愚痴を言うことで責任をこちらに押し付けていたのです。
私は甘やかすつもりじゃなくて、休める空間を与えているつもりだった。でも過度な寄り添いは「馴れ合い」のような物で、言葉も通じなくなって当然です。
突き放せないのは覚悟のなさです。彼らの可能性を信じるなら、彼らを停滞させるべきではなかった。愚痴を吐かせることは自傷行為と同じだ。追体験させるだけで終わるからだ。そこを発展させる技術がないくせに傾聴だけしていても意味はない。
彼らと私の生きる世界は違うのだと気がつく
この感覚は小学生から、いやもしかすると幼稚園時代からありました。
私と彼らは本質的に相容れない場所に生きているのです。この視点が観察者としての視点なのか、それとも現実における物理的な立ち位置を示しているのか分かりません。
『私は彼らに関わることができない』
これがずっと否定したかった直感です。何のために生きているのか分からなくなるからです。皆と同じように生きたいのに、彼らと笑い合う場所に私は居ません。
それで納得している本質の私がいます。馴れ合いと呼ばれる関係性は、本来の目的を果たす為には余分なことらしいです。
私は独立した存在として、人々の間に立たなければなりません。
言葉が通じないのは当然と受け止める。行動の先には大きな目的があるからです。
どうしても人が「保護動物」に感じてしまいます。このイメージはなんでしょうか。
私は彼らを支える為に産まれてきたのです。だから、私は一般的な欲を満たせなくても納得できるのです。
1人で長く過ごすようになると、この意識になってきます。
頭の中が静かになって、冷徹というか合金?プラスチックみたいな、混ざらない構造物になっていきます。視点が人間じゃなくて、よく分からない何かになる。
そしてこの意識状態がハッキリと告げてくるのは『人に説明する必要はない』というメッセージでした。人に関わっていく必要はないと感じます。私は目的の為だけに関わるのでしょうか。助けを無視しても良いという意味です。
私の体は病気なのに、それは関係していないのです。意識+構造物の私が存在していて、それが体とは関係なく何かを作っているような感覚です。
これを任せてしまえば達成できる何かがある。それは分かるが、日常生活から思考が消える不安をまだ受け止められていないのです。
私に必要なのは責任を放棄することと、やってくる物を受け入れていくことです。
それは待ちのスタンスになると思われます。何かの為に私は存在していて、それを行うまで私は生きていなければならない。
責任を投げてしまえば、私は眠っているように毎日を過ごせるようになります。
時折溺れるのが怖くなって飛び起きる、これが私の昔からのサイクルです。
私の体には人間らしい推進力がありません。ただ何かを待っている感覚だけがある。
だから存在していることは苦しくない。ただ、それを証明できないから何かを手に入れようと努力するのだ。それが引き寄せだったりタフティーだったりする。
この意味のわからない感覚の為に、人の話を聞くことが困難になりました。
もう愚痴を聞く役目は終わったのがわかります。私はしばらく楽になってもいいらしい。
言い訳を考えることにも疲れました。人々は自分の足で立つことができます。私が行うのはエネルギーの調整であり、彼らの立つ場所を整えることです。
風の時代を抜きにして、人々は大丈夫です。それは私が幼稚園の時から理解していました。皆さんは問題を解決できます。そうなるように設計されているからです。
そう、説明することをしなければ私は人々の安全を断言できます。
もう大丈夫な時代に入りました。楽になることを選んでいきましょう。
毎日寝ているだけでも大丈夫です。やりたいことが見つからなくても大丈夫です。
私たちが苦しむことはもう終わります。それはそのように設計されていたからです。