33は優しいから真面目なのだろうか
人の前に立つと弱者を演じてしまう私です。この演技が相手の役に立っていないと分かっているけど、なぜか目線が揺れてしまいます。
人の態度を決めているのは自分です。
自分が設定するから彼らは同じ行動しか出来なくなります。幼少期に学んだ常識を大切にしているから、迷惑をかけてはいけないと常に責任を感じている。
責任を守ろうとすると、そこに期待が生まれる。
『これをすると、こうなってしまうだろう』これがネガティブな期待だと考えます。このイメージに応えるように、現実はその通りになる。
その時に私が彼らから感じるエネルギーは「不満」です。
その感情の出所に私は気付いています。だから恐ろしくなって謝りたくなります。
自分の行動に責任を紐づけることは、エゴを肥大化させます。
エゴの属性を使えば現実にのめり込み、そこから抜け出すことが難しくなっていく。
弱い自分であるとき、強者に媚びるようになります。それは自分の意見よりも一般常識に従うことを意味します。
多くが慈善に対する肯定です。「人は困っている」だから私は能動的に動いて、状況を変えていかなければ駄目だと考える。そんな狭いエネルギーで世界を制限するため、暗い現実ばかり目にするようになり、生きる意欲を失っていきます。
『ほらやっぱりな』
これが期待を果たしたときの感想です。責任によって行動結果を制限するから、決まった内容で納得しようとする。責任感を持ち続ける限り、逸脱することができない。
世界に対して真面目すぎるのだ。動きの遅い物だと考えているのは誰のためか。
相手よりも自分の為だろう。幸せよりも「停滞・一定の流れ」が重要視されている。それを守ることが世界に対する礼儀だと思っているのかも。
これを考えるとき、外部は関係しなくなる。自分の中だけの妄想だと理解できる。
私がしている世界への認識がこれで、守ることで世界が安定すると考えている。
体を持つ3次元世界は遅くなければならない、という思い込みがある。
「助けるのも手順が必要、幸せになるにも時間が必要」このような手間がなければ意味がないと思っている。
他者から褒められることで達成したと考え、その報告と反応までに時間がかかるから、そこを抜かさない為に達成までの時間をより長く設定する。
俯瞰すれば自分も他者で人形である
他人を助けるのと、自分を助けるのは同じである。
私たちは自分を主導的な何かを達成すべき存在と考えるが、私が救わなければと考えている他者と、私は同じ患者である。
タフティーメソッドのように、俯瞰している私によって、自分の体を含めた全体を構築していくのが世界の目的だと考えます。
ですから、「他人」という狭い枠で考えるとき、そこに繋がる全てを見るのである。
本当の救済とは、世界をそのように設定することです。1つの体を使って慈善活動していくことではない。コロニーシミュみたいに画面に映っている情報すべてなのだ。
みじめで弱い自分を実感するとき、それを他者のように感じることができる。
そうすると体を責任から解放できる。産まれた責任を果たそうと考えることが苦しみの原因である。『このままでは駄目だ』自分だけが特別ではないと許すことは、他者に対する自由を与える。
体を持つ意味は、1つの視点から物語を見るためだ。
「私がやる」の考えを捨ててフィールドを歩くキャラクターだと思ったらいい。
この生きるという行為には意味がない。人を助けることは体があって行われるが、その出発点は体ではない為「助ける人」は存在していないのです。
責任を手放した後に何をすればいいのか
責任を手放すのはアイデンティティの喪失を意味すると考えています。のめり込みが消えると現実に対する熱が無くなるのです。
ではどうするかと言えば、やってくるものを受け入れて生活していくことになります。
「やってくるもの」は観察者の意図なので、成否に関わらず行動していけばいい。
それは体のプログラムに適した入力だから心地よいはずです。責任はあっちにあるので、私は一点賭けして借金踏み倒しです。
でも、人は責任を手放すことが難しいですね。一定のルールが無いと反応に対する満足が得られないのです。予想が当たることが人間の大きな満足なんだと思います。
ここには諦めと恐怖があるでしょうか。
人=人形ということで、人を扱う観察者の立場になる必要があります。命に価値はありません。ただポジションに置かれた駒と同じ。私はそれを盤面から全て動かしています。
一人遊びであるから不幸になる人は誰もいません。
これまでは停滞するために形を作っていました。彼らが存在するという思い込みを消していかなければなりません。彼らが居るのは貴方の空想の中だけです。
私は彼らを幸せにしたいと思う。
その彼らを一度消してしまえば、彼らは私の理想として現れるようになるだろう。
それを不気味に感じるのは、ルールの中で表現する必要があると思うからです。
実際のところ、助けることよりもルールを守ることが大事だと思っていた。これが「助けなければならない」の思考である。困っている人を前提に置くことから始まっていた。
ボーリングみたいに初めにピンを並べている私が居た。ピンが困っている人です。
困っている人が存在していなければならない。という不思議なルール。
誰かに怯えてこのルールを守ってきました。常に相手を縛っていたのは私だった。
自己満足だと馬鹿にされるのはルールの中で生きているからです。誰かの中から抜け出すことが求められています。世界を刷新しましょう。人の属性は貴方が決められます。
決める責任はありません。やってくる感情に従って自由に決めていけばいいです。
粘土遊びだと思いましょう。この世界は実際そのような物です。人も家畜動物も同じ土俵に乗せて考えると楽ですよ、重さを感じるのは責任があるからです。
楽にしていい、と考えてもそこに責任が発生しています。だから頑張ってしまう。
ですから来るものを受け入れるスタンスが良いのです。来なければそれでいい、それで責める人はルールの中から話しています。でも、そのルールには価値がありませんね。
思いつくままに行動しましょう。頭を使うのは終わりです。
今に生きるという言葉が意味を持つ時代に入りました。
「理由はわからないが」この枕詞からすべてを始めていきましょう。