2025年2月8日に「世界の方向性が決まった」と感じてから、現在までその印象は変わっていません。人々は平穏と情熱が溢れる世界を体験していくことができます。
だが、そこに私は存在していないように思う。この理由について考えてみます。
地球における幸せとは、私には価値のないものだ
他者の幸せを願うとき、私は「大丈夫だ」といつも思う。
これは「幸せルート」が確定した証であり、これからの地球は争いや卑下が発生しない、ありのままの自分を証明する美しい世界になっていくのである。
これは私にとっても、とても喜ばしい世界である。これ以上に望むことはない、皆が笑顔で生きていることが、私のこれまでの行動目的だったからである。
だが、ここで不思議なことがある。
その美しい世界において「私の存在」が感じられないのであった。
未来の地球で人々と笑い合う私の姿がない。あるのは「安心と満足」に満ちた、肉体を持たないエネルギー的な私である。だが見守るという形でもない。もう地球には関連しなくなっているのだ。
人々が辿り着く場所に、わたしは魅力を感じていないと気が付いたのだった。
酒池肉林という言葉があるが、人の身で体感できることなど高が知れている。
「平穏・情熱」がそういう意味を指さないことは理解している。だが似たようなものだ、地球とは人と人の繋がりが1番魅力的なのだから。
ここで私の望む世界を言語化してみた。
「誰にも気を遣わない世界」
これが1番に浮かんできた。これについて考察してみよう。
誰にも気を遣いたくないと来た。つまり疲れている感じがしますね。
「助ける人自体が存在しない世界」を望んでいるのがわかります。誰かの相談に乗るのはもう嫌だと思っている。不毛な人助け遊びは飽き飽きしている。
つまりこの意味は、わたしのこれまでの役割が消えていることを表している。
あぁ想像するだけで理想的だ、もう苦しむ人が居ないのだから。わたしが世界を嫌う理由はなくなった。それなら私はその世界が大好きになって、本当の関わりという物が味わえるようになるのだろう。
白々しく書いてみたが、全く魅力を感じない。なぜなのか。私は何を望んでこの世界にやってきたのか。理屈的に考えるなら仕事に来たのだ。遊ぶのではない、やるべきことがあって私は生きているのだ。
新しい地球を作り上げる役割を担っている。つまり私たちは「作業員」であって、ここに住むものではないのである。
私が整備した「新しい地球」で遊ぶ人々を見る。それはとても魅力的だ、ここまで頑張ってきて良かったと思える瞬間であろう。ならばそれを観たくはないのだろうか。
自己肯定感の低さが原因の可能性も高い。数秘33は地球で息が吸えないからだ。
新しい地球だって!?わぁそれは凄いや、セールスポイントはどこなんだい?
へぇ最新のテクノロジーが使われているんだね!え、別の惑星からもお客さんがやってくるのかい!? そいつはまさに「グローバル」ってやつだねぇ! 聞いてるだけでワクワクしてくるよ、きっと大成功間違いなしだよ!すごーい!
あかん、まったく興味がもてない。やはり新しい地球では存在していないのか。私が好きなことってなんだろう。次の項目で好きなことを考えてみます。
朗読・歌・数秘レポート作成が好き。
わたしは「声」を使って遊ぶのが好きみたいだ。
幼少期~20代まで、私は怯えて他人と喋ることができなかった。喋らないのも嫌われてしまうので必要最低限は会話していたが、おおよそ自己主張という物が全く無かった。
その反動だろうか。一人暮らしを始めてから「朗読」をやってみたんだが、これが中々に面白い。というか朗読に憧れる自分は昔から存在していた。
『夜行堂奇譚』という小説があるのだが、それの朗読動画が大好きだった。
この男性のような「エッジ」の掛かった、語尾に吐息まじりの朗読をしてみたいと思っていた。程よい低音が心地よい。聞かせる相手を安心させたいと思った。
わたしは滑舌が最悪に悪かった。
喋ればいつも相手に聞き返される。お店での注文など苦痛で仕方なかった。私が声を出せば周りの人がわたしを見つめてくる。これが異常であることは自分でもわかっていた。
また、「不正咬合」というもので、私の前歯は内側に食い込むようになっていた。
「つ」の発音が今でも上手くできない。『はいよろこんで』の「・・・ーーー・・・」の部分がうまく歌えない。とても惨めな気持ちになる。
だが朗読を続けていくうちに、わたしの滑舌は見違えるように良くなった。
今では注文するのが楽しくなるくらいだ。レジでお礼を言うのさえ楽しくなる。私を見つめる彼らの目が「声のよさ」に驚いているようにさえ思えるのだ。
声優学校に通って、本格的に「声の勉強」をしたいと思うときがある。どうせやることも無いのだ。この考えはとてもいいと思っている。
声を使った仕事で生計を立てられたいいな、と思う。仕事になってもこれは趣味の領域から抜けないだろう。暇つぶしな人生の中で、少しでも有意義に過ごせる方法が「朗読」にあると感じているのである。
これは夢物語ではないようである。その証明をわたしは父の葬儀で貰った。
弔問客の前で「弔辞」をしたのだが、それがえらく好評だった。親族一同が私の声をべた褒めしてくれた。大袈裟すぎて嘘だと思えるくらいだった。
驚いたのが式場の支配人がわたしを呼び止めてまで褒めてくれたことだった。
声の仕事をしているか?と聞かれて、無職です。と答えたら「仕事にしたらいいですよ!」と背中を押して貰ったことを憶えている。
ここまで褒められるなど人生で一度もなかった。それならば、これは嘘ではないのだろうか。いやでも、あまりに都合がよすぎる。引き寄せによって世界が変化したのか。それを受け入れるとして、本当に私の声は求められるのだろうか。
こうして自信がもてない理由は、家族に「声」を褒められたことなど無かったからだ。
「いつも聞いているから考えたこともなかった」と、母と祖母は言い訳をした。
本当に…? 祖母はASDだ。母もASD傾向にありADHDでもある。だからだろうか。
どちらにせよ、私の可能性の1つは「声」であるだろう。楽しめるということが才能の1つであり、私は何時間でも朗読ができる。ならば私は、これを仕事にできるのだろう。
歌は人前で自信がもてる程度でいい
滑舌が悪いということは、「声に抑揚」がないと同義である。
そして滑舌が悪いと「舌のポジショニング」が出来ないので、望んだ音を出すことができない。これが歌が下手な大元の理由であり、音程だとかは二の次の話なのだ。
歌が上手くなりたい人は「朗読」をすればいい。歌とは朗読の延長線上にある。演技力こそが歌の魅力であり、声量だとか声質とかはプラスαだと思っている。
世界を目指さないなら、カラオケで楽しめる程度でいいのなら「朗読による演技力習得」を学べば確実に満足できるレベルまで到達できるだろう。
朗読で学べないのは「ロングトーン」と「高低の切り替え」である。これだけは歌って筋肉を鍛えなければならない。他は知らない。大体それっぽく歌えるようになるよ。
歌っているときは嫌なことを忘れられる。また他人の曲を考察するのが好きだ。
どうすればもっと良くなるとか、ここが「この人の魅力だ」とか、そういった評論家視点で曲を聞くことが多くある。下手なくせに何を上からと思うのだけど、なぜか私はいつも曲を聞きながら考察をしているのである。
「ダンスの振り付け」も同じように細かく考察して、改善点を並べることができる。
知識もないし、踊ることもできないけれど「変えたら良くなる部分」が何故かわかるのだ。つまり、そういった「監修役」としての才能もあるのかもしれない。
ちょっとした隙間時間に「弾き語り」ができたらいいなーと思う。
映画でよくある焚き火を前に、バラードが歌えたらきっと素敵なイベントになるだろう。これが2つ目の「人生を少し輝かせる可能性」である。
数秘レポートを作成し続ける人生
朗読と並んで、終生までの活動にしようと思っているのが「数秘レポート作成」である。
やはり私は「人の役に立つこと」が好きだ。人の幸せのためなら自分の時間をいくらでも費やすことができる。それを求められている自信がないから、半分以上を無駄に浪費しているのだが…。
知人の家族全員分の数秘レポートを作成して、私にはその才能があることが分かった。
数秘以外での「リーディング」も行えるため、タロット占いのように個別に合わせたアドバイスが行えるのである。これはその人の人生指針を明確にすることに役立ち、私が求める水準の助けに繋がっているように感じる。
お金で換算すると「5万~」でも平気で取れるのではないか。勿論もっと知識を深める必要はあるだろうが。あとは直感に対する信頼を高める必要もある。証明できない項目だからこそ、間違った情報を伝えてはならないのだ。
リーディングとは「上位存在との協力作業」であると考えている。
であるならば、4次元存在のような低俗なものと繋がってはならない。つまり自分の波動域を高次元に保つ必要があるのである。そうすれば彼らは関わることができないからだ。
わたしは、昔から高次元存在との触れ合いが多かった。
「様々な色のエネルギー」が私の中に入ってきては出ていく、という体験をしていた。だから大体の人のエネルギー状態の意味がわかる。これを活用するために、私は多重人格という体験をしてきたのだ。
私にとっては意味を為さない経験でも、目的のためには役に立つ。これこそが私の産まれてきたジャンルを表していると考える。つまり「仕事」なのだろうと思う。そこに楽しさはあるが、通常のような「娯楽」では無いのではないか。
だが、これらも「一人遊び」であると私は理解している。
一人遊びだから、これは私がやりたくてやっている事なのだ。結局のところ、助ける人も困っている人も存在していない。私が見たいが為に存在する人形である。そしてそれを行う私も人形である。本質はそれを観ている存在なのだ。
地球を去るまで私は活動を続けなければならない。
だから私は「朗読・歌・数秘レポート」で時間を潰そうと考えている。
まとめ:私にも居場所はあるか
人々の影響を受けなくなってきている。相手との位相がそもそも違うことを理解した。
これこそが他者の世界に共鳴できない大元であろう。これから向かう世界にわたしが存在しない理由だろう。威張るでもない、ただ産まれた瞬間から他者と存在している層自体が違ったのだ。これが私を孤独にしたのだ。
だが私が存在する限り、私は世界に影響を与えている。だから自分を大切にしない事は、その要素を世界に与えていることである。それは変わる他者の足を引っ張る要因となり、私が避けたかった未来をつくるのだ。
人を助けるという「私の役目」は終わりつつある、次の役目は「私が幸せになること」なのだ。他者を優先するよりも自己を優先するのだ。それによって世界の属性を変えていく作業に協力していくのだ。
彼らを幸せにしたければ、まずは私が幸せにならなければ不可能である。
地球が変革していく流れを加速させるために、もう個人を見つめる必要はないのである。彼らは後からついてくる。だから先を作るのが今の私に求められている役割なのだ。
私は不幸ではない。だから居場所は必要としないが、これから私は「人間の理想」を達成していこうと思っている。それに何かしらの意味を感じるからだ。
朗読を仕事にすること。歌で人を感動させる経験をすること。数秘レポートの先生になること。これらを目標に今後の人生を変えていきたい。
人々の幸せな姿が見える。そこに私は存在しないが、それでも私は満足して旅立つことができるだろう。そこに個人的な喜びが1つ思い出として残れば、私としては大勝利である。