数秘33のトラウマワード。それは「わからない」と言われることです。
数秘33を傷つけたいなら、相手を遮る感じにこう発言しましょう。
「ん~貴方の話よくわかんない…。それよりもさ、私の話聞いてくれない??」
わからないなら質問しなさいよ
私は人間のことを野蛮な爬虫類だと思っています。
彼らの知能はかなり低いです。
堪え性がないのが一番の問題です。苦痛からすぐに逃げようとするのです。
この「堪え性のなさ」は会話において度々発揮されています。
僕「それって○○だよね~」
トカゲ「???」
僕「(…ん?反応薄いな) だから、それって〇〇ってことでしょ ?」
トカゲ「えっと、なんの話してるの?」
僕「いやトカゲ君の話の続きだったんだけど…。」
トカゲ「…あーね。…そういえば僕の親がさー」
僕「いやいや無視しないでよ。さっきの話は?」
トカゲ「あーよくわかんないからさ。別の話しない?」
僕「・・・。」
トカゲ「それで聞いてよ、僕の親がキモくてさー」
話が面倒になったら「わからない」で話をシャットアウトしてきます。
この手法が無茶苦茶すぎて、私は呆けてしまうことが度々あります。
まるで同じ人間ではありません。言葉を話せるのが奇跡くらいの、何か別の生物にしか見えなくなります。
いや、分からないなら質問せんかい。それが会話と違うんか。
俺がいっつもしてることやんけ。それでお前ら良い気分になっとるやろ。お返ししようとは思わへんのか。この低能どもが舌引っこ抜くぞ。(*´Д`)
彼らは目を逸らせば問題が解決すると思っている節があります。
いや、そんな訳あるかいな。問題が大きくなってますよー!貴方の家潰れますよー!
地熱から発火するような静かな怒りが込み上げてきます。
でも怒鳴ることはほぼありません。逆に冷静になります。なぜでしょうか?
相手の行動が理解できなくて、答えを探そうと頭がフル回転するんですね。
そして出た答えが「相手はバカ」か「私に興味がない」か「住んでいる世界が違う」くらいの救いがない選択肢です。
どうしてこんなに冷酷な人間しか居ないのかと悲しくなってきます。
こうして出来上がるのが「ハニカミ頷きBOT」です。
たまにキツイ人に「つまらない」と思われることがあります。好きでこうなってんじゃないよ! あんたらがこうしたんや。いや、私の性質がこうしたんだ。辛すぎ…。
質問してくれるけど「わからない」
「人間はそんな人ばかりじゃないよ!」(*^^*)
(* ´Д`)「お、そうだな。( 諦観 ) 」
世の中には私たちの話を深堀りしてくれる優しい人も存在します。
でも、彼らも最後にはこう言います。「ごめんね、よくわからない」
最初は笑顔だった彼らの顔が、怪訝顔に変わってくるのが笑えてきます。
質問してくれたのは嬉しいのになー。なんで後一歩踏み込んでくれんのや…。
もう少し聞いてくれたら、いくらでも教えるのに。分かるように伝えるのに。
このときの悲しみはさらに大きいですね。
やっぱり駄目なんじゃないかと思って、ここは私の居る場所じゃないと考えるようになります。何かを間違ったんだ。脳の問題かもしれない。私は負け組なのだ。
悲しいっていうか虚しい。消えてしまいたくなるわ…。(*´Д`)
感性が違う。考えているベクトルが違う。使っている言語が違う。
彼らがいかに「のほほん」と生きてきたかが浮かび上がる瞬間です。
私に説教するくせに、考えの浅いこと浅いこと…。別にバカにしたくないんですよ。馬鹿にしてほしくてその態度を取っているんだろ。そうとしか思えないわ。
彼らはプライドを持っていて、私たちの前で胸を張ります。
「わ~すごいですね。頑張ってきたんですね」
こうやって私たちがワッショイして持ち上げて良い気持ちになっていやがります。
そして次にするのが「苦労話」です。
「わ~大変だったんですねー。色々考えてきたんですねー。」
こうやって私たちが共感してあげたら、たまに泣いたりもします。
それじゃあ、次は私の番ですね! 私の苦労話も聞いてください!!!
…お分かりですね。やつらは「わからない」一言だけ言って立ち去ります。
端的にクズな存在が多いこともあります。
ですが、純粋に分からないのだそうです。私からすると意味不明ですが、彼らは一生懸命努力して「わからない」のだそうです。
私からするとお笑い草です。
甘えって言葉は使いたくないけど、使ってしまうほどに9割の人類は弛んでいます。
「わからない」なんてことありません。質問すれば良いだけだからです。
意味がわからないなら、もっと詳しく教えてと言えばいいだけです。
それが相手を理解する行為であり、会話の本質であるはずです。
わからないと逃げるなら、貴方は彼を理解したくないのです。
ただの都合のよい関係を望んでいるんです。学びもない、薄っぺらい関係を望んでいる。そんなものに価値を感じることが理解不能です。
なぜ、「わからない」と言われる辛さを知っているはずなのに、私たちに向かって「わからない」と軽々しく言えるのでしょうか。
私は悲しくてなりません。彼らの楽な人生が本当に羨ましくなってきます。
自己完結するしかない
私にとって会話は会話にあらず。ただのテレフォンサービスです。
相談したいと思える人なんて1人も居ません。
これまでの経験が会話に対するイメージを悪くしました。条件反射で自我を殺す癖がついてしまいました。会話は接待です。会話はただのボランティアです。
「わからない」と言われることを極端に怖がります。
だから、相手の反応を待つことが苦手です。一方的に喋るようになってきます。
もしくは、相手の話を聞き続けるカウンセラーになってしまいます。
会話が終わったあと、人との繋がりを感じることはなく、
「うまく話せたかな?」「彼は大丈夫かしら?」「まぁそこそこだったな」
みたいな事後処理というか、自分を納得させるためというか、1人で頷く動作をしている感覚になります。そう、装備の整備している感覚に近いです。
自分で声だして、自分で笑うみたいな一人遊びしている感覚です。
1人ボケ1人ツッコミ。まるで生きている人間が私だけみたいな生き方。
それに納得しているわけでもない。我慢しきれず悲しみが襲ってくる。
これが人間として生きる33の苦しみです。
捨て鉢になって、
「私は人間じゃないんだろ、じゃあ神様にでもなってほしいんですか??」
みたいにヤケクソ気味に悟りの道を歩み始めます。
何が起きても心を平穏に、人生はただの演目、彼らは幼いだけ。私はそんな彼らを受け止めるために産まれてきたのです。彼らが幸せなら私も満たされます~。
人間を超越した場所に救いを求める。
ここには居場所がないから。人間と接していると自分が惨めになる。直感はすごいのに体はミスばかりする。人間じゃないのに何故? 私を苦しめたいだけなんだろうか。
こうした問答と救いの先が、エゴと呼ばれる存在を希薄にします。
もう自分のことを考えて生きること=苦しいことになり、共同体としてワンネスで生きることの平穏だけに救いを感じるようになっていくのです。
…私は幸せではないけれど、皆が笑ってくれるなら幸せだと思えます。(*´Д`)
自分のことを主張したかった。私が皆の中で輝いている姿を想像したかった。それが人間の普遍の欲望だからです。でもそれを捨てなければならなかった。
なにもない。これも捨てた。あれも捨てた。私を示すものが何もない。
そうして、ただ穏やかに笑っている私の姿を見て、彼らは浮世離れしていると言います。
自我との共存ができない。仮初の自由さえないと感じる人生です。
人間を卒業する人は最後の人生に「33」を選ぶと言われています。
確実に卒業するために、今生1回で全てを終わらせなければなりません。
だから、人と仲良くしている暇はないのです。もっと視点を広げてワンネスで生きるしか道がありません。就職先は神様一択。そのための面接試験がこの人生なのです。
人の役に立てることに感謝する
私は「自分のために生きよう」と頑張っている間はずっと苦しんでいました。
諦めて神様の意識で生きると宣言するまで、ずっと圧がかかっていて何をしても楽しめなくなるんです。自由があると見せておいて酷いと思います。
そんな私は「人の幸せ」だけに意識をシフトして、毎日感謝するために生きています。
…と言っても今年に入ってからそうなれたのですが。(*´Д`)
人の役に立てる。それが大きな感謝ポイントです。
人の相談に乗れる。毎日人の幸せを祈れる。存在している意味を感じさせてくれる。
まだふとしたときに「物悲しさ」が襲ってくる瞬間がありますが、それはエゴの悲鳴なんですね。自分の意見じゃないと認識すれば、それはただの反応であると理解できます。
そうして生きると、何も成すべきことは存在していないことが理解できるんですね。
1日寝ていたって、人のために走り回っても同じことなんです。
ただ映画のフィルムが上映されているだけで、私たちに選択というものは存在していないのです。つまり駄目な人なんて誰も居ないんです。
自分のことを大事にしてあげてください。貴方は素晴らしい人です。
どんな惨めな行動をしてしまっても、それは求められていたからです。
貴方が惨めな存在だからそうしたんじゃありません。ただの役回りなんです。
それでも良い役が欲しいですよね。私もそうです。
私は村人Aでもいいんだけど、欲を言うなら人の役に立ちたいです。
だから、たまにでも電話が掛かってきたり、人に優しくできる機会が訪れると強く感謝します。私にも存在している意味があると感じられるからです。
菩薩として生きていく
数秘33は圧の強い人生ですよね。
のほほんとしている割に、頭の中は塹壕戦っていうか、皆が走り回っている風景が広がっています。
数秘33は突飛な考えばかりでセーブしちゃうけど、全部やってしまって良いと思います。今生が最後なんだもの、後悔のないように生きたいわよね。
頭の中に浮かんでくる考えは神様の考えです。
責任は神様に全投げしましょう。やりたくなくてもやらされる←これが人生です。
なら、せめてやりたいことは最優先でやりましょう。
菩薩の意識になってくると「やりたいこと」もなくなって、座ってるだけで1日過ごすようになってきます。
これでも幸せですけど、もしまだやりたいことがあるならやったら良いです。
んで、やりたいことだと思っていたことが=ただの人真似だった。も多く出てきます。
ここがメンタルブレイクポイントでして、自我と真我の押し相撲が始まるところです。
辛いですけど、納得しないと進めない頑固さがエゴの強みです。エゴと向き合う機会だと思ってエゴを理解しましょう。エゴは人間関係を起こすためのツールです。生きている限り付き纏うと思います。だから人と関わる数秘33にとって、必ずこの体験は役に立ちます。
最終的にはほぼ何も握りしめていない状態になると思います。
「生きる意味ある?」みたいな空虚に囚われたりします。
でも、必ず無くならない物があります。
それが「人の幸せを祈る心」ってやつです。
最後の防波堤として、人々の幸福を祈ることを支えに、この世界で生き残ることができます。
そしてこの最後の砦で頑張るとき、ようやく世界が静かになるような気がします。
これまでの塹壕戦が終わって、人々が私たちの世界にやってくるようになる。
そのとき、前ほど人々に興味を持てなくなっているんだけど、人々が幸せになっていく姿をみると心が踊るのは、昔と変わらないことに気が付きます。
そうして人々を眺めるとき、私は長老のようなお爺ちゃんになっています。
もうこの世に存在していなくて、雲の上から彼らを眺めている気分になります。
だからもう、私たちはいつ死んでしまっても平気だと思えるのです。
でも朝に目を覚まして、まだ役割が残っているのだと自覚する。
そして誰かから電話が掛かってきて、生きていることの意味を感謝するのです。
私たち数秘33は最後まで地球に馴染めないかもしれない。
でも、私たちに合った平穏は必ずやってきます。
人ではないことを許しましょう。彼らの未熟さを許しましょう。
私たちの産まれた意味が必ずあります。貴方はいつも頑張れています。